最適化と多様化 - 吉野家の悲哀に感じる

あるいは、集中と分散と言い換えることもできるかもしれない。

私たちは絶えず、あらゆるレイヤにおいて、
この二つの中でバランスをとることを要求されている。

例えば、企業の競争。
選択と集中」が昨今の流行言葉であるが、
コアコンピタンスを有する分野に極端に集中することは
効率を向上させ競争力を高めるが、一方で驚くほどの脆さを抱えこむことを
意味する。
集中、つまり、現在の競争環境に最適化しすぎることは
状況の変化への対応力を失うことを意味するからだ。

例えば、吉野家。メニューを牛丼に絞り、原料の輸入先を最も効率よい国に絞り、
その他、ありとあらゆる点で牛丼チェーンとして最適化を図ってきた。
その結果、現在の危機がある。もちろん、その最適化がなければ
現在まで吉野家が競争を勝ち抜いて来れたかどうかはわからない。
メニューの多様化、原料輸入先を複数確保することは効率の低下を
伴うからだ。
ただ言えることは、今回は、最適化が裏目に出たと言うだけだ。

進化論的にもこの最適化と多様性のバランスは重要である。
生物の種にとって、環境に最適化することは非常に重要である。
現在の地球の気候、特定の地域の気候に適した身体を持つことは
生存競争上必須である。ただ、最適化すればするほど、脆さが増大する。
特定の地域の気候に最適化しすぎれば、何らかの原因、地殻変動
新種の登場でその地域を追われることになった種は、
もはや生き延びるすべがない。

地球全体の気候に順応したつもりであっても、時には地球規模の
気候変動が、その種の存続を許さない。

環境への適応は競争上必須であるが、適応しすぎることは
種全体の破滅を意味しかねない。

生物は、遺伝子レベルで、この種の反-最適化、つまり多様性を維持する
機能を持っている。突然変異の適度な発生は、種の多様性を保つ上で
必須なのだろうと推測する。

我々は、社会的にもその最適化しすぎることの脆さを直感できる。
非常に優秀な salesmen を揃えた会社を想像してみる。
salesmen の全員が全員、ある製品、
例えば車を売ることに関しては素晴らしい知識と経験を持っている会社。
恐らく、その会社は、素晴らしい営業成績をたたき出すことだろう。
だが、その会社の社員が全員同じタイプの人間ばかりである場合、
私たちは案外、その会社の力を感じないのではないか。
それは、多分、その手の集団が、環境の変化に非常に弱いことを
本能的に感じるからだろう。
世の中が車を必要としなくなった場合、また、それほどではなくても
自動車のトレンドにパラダイムシフト級の変化が起こったとき、上記の
会社の強みは失われ、下手をすると強みはそのまま弱みにさえ
なりかねないからだ。

それよりはむしろ、様々なタイプの人間を大勢抱えるライバル会社の方にこそ
我々は不気味な恐れを感じるのではないかと思う。
優等生的社員もいれば、ただのぐうたらおじさんもいる。
よくわからない研究ばかりしている人もいる。
そんな会社に、ポテンシャルの高さを感じるのはある種自然なことである。

現在の環境では、ただの怪しい従業員でも、実は、次世代のキーテクノロジー
エキスパートであるかもしれないからだ。
その「怪しい従業員」一人のおかげで、会社全体が救われることすらあり得る。
多様な人物を大勢抱えれば抱えているほど、その会社は変化への対応力を
潜在的に有している。

もちろん、現状で優秀ではない人物を大勢抱えることは高コストの要因以外の
なにものでもないし、現在の競争にとって明らかにマイナスだ。
孟嘗君や平原君の食客は、ただ飯ぐらいに過ぎず、
威信の英雄も平安の世ならただのはみ出し者に過ぎない。
ただ環境変化の際にはその種の鶏鳴狗盗の輩が社内にいるかどうかが
生き死にを分けることにもなる。

これは、会社だけのことではない。あらゆる集団にとってもそうであるし、
生物としての種にとっても真であるかと思う。
我々は、あらゆるレイヤでこのことを経験し、そしてまさに今も
味わいつつある。

十分に余裕のある社会では、minority や handicapped のような
「周縁」の人々の生きる権利が尊重される。
なぜならば、彼らはいつなんどき、周縁から中心に
踊りだすかわからないからだ。

一方で、余裕のない社会では、minority や弱者は簡単に切り捨てられ
姥捨てさえ行われる。


強くなければ生きられない。
優しくなければ生きる資格がない。
If I wasn't hard,I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle,I wouldn't deserve to be alive.

これは美学ではなく、集団が存続するための鉄則と
読み替えることができる。

我々の本能、道徳に刻み付けられた多様性の尊重は
自分たちの集団、種を残すための手段に過ぎないと
考えられる。
優しくあるのは美徳だからではなく、自分の集団が
将来も生き抜けるようにするための保険なのだ。

ここで今、ネットワークがもたらしつつある、
急速な画一化、それも世界規模の画一化を考えたい。

local culture の消滅、特に言語、風俗等の
思考を規定する手段の急速な画一化は
ある種底知れぬ不安を掻き立てられる。
我々は、international communication の飛躍的な
便利さと引き換えに、未来の生存権を放棄しつつあるのではないか?

internet がもたらす global communmity は、
周縁のない世界、つまり終末点なのではないのだろうか?

ともあれ、吉野家の最適化が間違っていたとは誰にも言えまい。
どんな変化が、いつあるか、人知を超えた要素があるからだ。
が、いずれにせよ、このケースは、最適化しすぎることの脆さ、
多様性の意味を再考させるに十分であった。