Foma 900i ゲーム

chatsnoir2004-03-25

最近、Foma 900i を買った。
買ったのは、ゲームをしたいからでも、テレビ電話がしたかったわけでもなく
イベントでのデモのためなのだが、
せっかくの機会なので、話題のゲームをやってみることにした。

私の機種では残念ながら、FF はいまだにできないので
(F がよほど変な実装をしているか、スクエアがよほど F が嫌いか
どちらなのだろう)
代わりにドラゴンクエストをやってみることにした。
(私は、ファミコンスーパーファミコンも持っていなかった人なので
子供のころ、みんながその話題で盛り上がるのを内心うらやましく
おもっていたのだ。)

ともあれ、感想としてはなかなかいい。画面もきれいだし、
音楽もゲームの音楽としては心地よい方じゃないかと思う。
操作感も軽快。
(これをみて Java が遅いという人はもういないと思う。)
なによりいいのが、がんばれば一日で終わる程度の大きさのゲームだということだ。

最近のゲームはとにかく複雑でやたら time consuming だ。
私の PC の中には、二年くらい前からやっているゲームが入っているが
いまだに半分も終わっていない。
費用対効果は抜群という考えもできなくはないが、
いいかげん、やる気もうせてくる。
もう、ここ一年は、意地だけでやっている気がする。

話はそれたが 900i 対応のドラクエは、ドラクエI のリメイクなので
なにせストーリーも、ゲームシステムもシンプル。
飽きたころにはもう終盤になっているので一気にエンディングまでいけてしまう。
絶妙な暇つぶしだ。

ところで、ドラクエとは別に、三国志信長の野望もやってみた。
こちらのゲームは両方とも、私の元上司が初期バージョンを作ったというものだ。
その彼に敬意を表してそれなりにリキをいれてやってみる。
で、無事天下統一してランキング登録。

その後、一週間くらいしてゲーム登録を解除しようとして、
koei のサイトを見てみて、はたと気が付いた。
なんと、自分が全国ランキング一位になっているではないか。

なんでも、初級コースの総合ポイントで一位だそうだ。
しかも二位以下を大きく引き離している。

全国一位なんて、受験生時代にも一度も無かった気がする。
たかがゲームのことだが、感慨深い。

しかし、落ち着いみると、いろいろな考えが出てくる。
よほどこのゲームのユーザは少ないのか、
他のユーザのレベルが低いのか(それはあまりないと思うが)

また、ランキング登録した時点で自分が
何位なのか教えてくれてもいいと思うのだが。
登録解除しようとするまで気が付かなかった。

そもそも、なぜ、自分が一位なのか、よくわからない。
総合ポイントってなんのポイントなのかまるで不明だ。

と、不満というか、ふにおちないところはいろいろとあるのだが、
ランキング入賞というのはやっぱり気分のいいものだ。
クリアした後、二度とする気はなくなっていたこのゲームだが、
中級、上級ランキングにも無性に自分の名前をいれたくなった。

今週末はまた英会話学校をサボってしまいそうで怖い..

最適化と多様化 - 吉野家の悲哀に感じる

あるいは、集中と分散と言い換えることもできるかもしれない。

私たちは絶えず、あらゆるレイヤにおいて、
この二つの中でバランスをとることを要求されている。

例えば、企業の競争。
選択と集中」が昨今の流行言葉であるが、
コアコンピタンスを有する分野に極端に集中することは
効率を向上させ競争力を高めるが、一方で驚くほどの脆さを抱えこむことを
意味する。
集中、つまり、現在の競争環境に最適化しすぎることは
状況の変化への対応力を失うことを意味するからだ。

例えば、吉野家。メニューを牛丼に絞り、原料の輸入先を最も効率よい国に絞り、
その他、ありとあらゆる点で牛丼チェーンとして最適化を図ってきた。
その結果、現在の危機がある。もちろん、その最適化がなければ
現在まで吉野家が競争を勝ち抜いて来れたかどうかはわからない。
メニューの多様化、原料輸入先を複数確保することは効率の低下を
伴うからだ。
ただ言えることは、今回は、最適化が裏目に出たと言うだけだ。

進化論的にもこの最適化と多様性のバランスは重要である。
生物の種にとって、環境に最適化することは非常に重要である。
現在の地球の気候、特定の地域の気候に適した身体を持つことは
生存競争上必須である。ただ、最適化すればするほど、脆さが増大する。
特定の地域の気候に最適化しすぎれば、何らかの原因、地殻変動
新種の登場でその地域を追われることになった種は、
もはや生き延びるすべがない。

地球全体の気候に順応したつもりであっても、時には地球規模の
気候変動が、その種の存続を許さない。

環境への適応は競争上必須であるが、適応しすぎることは
種全体の破滅を意味しかねない。

生物は、遺伝子レベルで、この種の反-最適化、つまり多様性を維持する
機能を持っている。突然変異の適度な発生は、種の多様性を保つ上で
必須なのだろうと推測する。

我々は、社会的にもその最適化しすぎることの脆さを直感できる。
非常に優秀な salesmen を揃えた会社を想像してみる。
salesmen の全員が全員、ある製品、
例えば車を売ることに関しては素晴らしい知識と経験を持っている会社。
恐らく、その会社は、素晴らしい営業成績をたたき出すことだろう。
だが、その会社の社員が全員同じタイプの人間ばかりである場合、
私たちは案外、その会社の力を感じないのではないか。
それは、多分、その手の集団が、環境の変化に非常に弱いことを
本能的に感じるからだろう。
世の中が車を必要としなくなった場合、また、それほどではなくても
自動車のトレンドにパラダイムシフト級の変化が起こったとき、上記の
会社の強みは失われ、下手をすると強みはそのまま弱みにさえ
なりかねないからだ。

それよりはむしろ、様々なタイプの人間を大勢抱えるライバル会社の方にこそ
我々は不気味な恐れを感じるのではないかと思う。
優等生的社員もいれば、ただのぐうたらおじさんもいる。
よくわからない研究ばかりしている人もいる。
そんな会社に、ポテンシャルの高さを感じるのはある種自然なことである。

現在の環境では、ただの怪しい従業員でも、実は、次世代のキーテクノロジー
エキスパートであるかもしれないからだ。
その「怪しい従業員」一人のおかげで、会社全体が救われることすらあり得る。
多様な人物を大勢抱えれば抱えているほど、その会社は変化への対応力を
潜在的に有している。

もちろん、現状で優秀ではない人物を大勢抱えることは高コストの要因以外の
なにものでもないし、現在の競争にとって明らかにマイナスだ。
孟嘗君や平原君の食客は、ただ飯ぐらいに過ぎず、
威信の英雄も平安の世ならただのはみ出し者に過ぎない。
ただ環境変化の際にはその種の鶏鳴狗盗の輩が社内にいるかどうかが
生き死にを分けることにもなる。

これは、会社だけのことではない。あらゆる集団にとってもそうであるし、
生物としての種にとっても真であるかと思う。
我々は、あらゆるレイヤでこのことを経験し、そしてまさに今も
味わいつつある。

十分に余裕のある社会では、minority や handicapped のような
「周縁」の人々の生きる権利が尊重される。
なぜならば、彼らはいつなんどき、周縁から中心に
踊りだすかわからないからだ。

一方で、余裕のない社会では、minority や弱者は簡単に切り捨てられ
姥捨てさえ行われる。


強くなければ生きられない。
優しくなければ生きる資格がない。
If I wasn't hard,I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle,I wouldn't deserve to be alive.

これは美学ではなく、集団が存続するための鉄則と
読み替えることができる。

我々の本能、道徳に刻み付けられた多様性の尊重は
自分たちの集団、種を残すための手段に過ぎないと
考えられる。
優しくあるのは美徳だからではなく、自分の集団が
将来も生き抜けるようにするための保険なのだ。

ここで今、ネットワークがもたらしつつある、
急速な画一化、それも世界規模の画一化を考えたい。

local culture の消滅、特に言語、風俗等の
思考を規定する手段の急速な画一化は
ある種底知れぬ不安を掻き立てられる。
我々は、international communication の飛躍的な
便利さと引き換えに、未来の生存権を放棄しつつあるのではないか?

internet がもたらす global communmity は、
周縁のない世界、つまり終末点なのではないのだろうか?

ともあれ、吉野家の最適化が間違っていたとは誰にも言えまい。
どんな変化が、いつあるか、人知を超えた要素があるからだ。
が、いずれにせよ、このケースは、最適化しすぎることの脆さ、
多様性の意味を再考させるに十分であった。

続 social networking

social networking は、まさに英語圏で生まれた発想だと思う。
誰でも彼でも frined 日本語にその単純さはない。
知人、親友、恩師、先輩、後輩、同僚、日本語にはそれらの言葉があるだけでなく、
私たちはその関係を絶えず意識しながらコミュニケーションを行っている。
十把一絡げに "friend" というわけにはいかない。

orkut では、最近、友達レベルを設定できるようになった。
知人から best friend までの五段階。しかし、それすら
US Culture には too much な気がする。
friend / not frined 気持ちいいくらいの、そして恐ろしく乱暴な
二項対立があの文化の基底にあると思える。
特に California はその傾向が強いのかもしれないが。

orkut でレベルをどう設定しようが、やはり frined は friend であり
その関係の太さを反映することは難しい。大親友の親友も、知り合いの知り合いも
social networking では、同じ 2リンク分の関係だ。

social networking の面白いところは、現実の友人関係をネットワーク上に
射影して、視覚化できることだ。
しかし、その手の視覚化に必ず伴う暴力的な記号化はやはり
避けてとおれないのか。

social networking

最近、急に身の回りで social networking なるサイトが流行り始めた。
最初に招待状がきたのは orkut その後、ビジネスフォーカスの ryze や
日本語版 social networking の gree にも入ることになった。

social networking のサイトは面白い。自分の友人関係が
視覚的に見れるし、意外な共通の友人、有名人への意外なつながりが
発見できるのも楽しい。

もちろん手放しでほめるわけにもいかないようだ。
一つには、privacy への懸念がある。
http://www.theregister.co.uk/content/6/35443.html

自分が登録した情報は外部に漏らさないとの条項があるが、
他人が自分に関して登録した情報は保証のかぎりではない。

また、自分の友達ネットワーク/コネを外部に漏らしたくない人も
いるだろう。例えば、コネを商売のネタにしている場合。
小泉首相にパスがあることを売りに商売している人が、
実は、小泉さんとは直接の友達ではなく、友達の友達であることが
ばれてしまえば、商売あがったりになる。
情報がクローズドだからこそ価値があることは意外に多い気がする。

いずれにせよ、コミュニケーションの(電子)ネットワーク化が
騒がれ始めてもう10年近く経つ。この social networking は
その節目を象徴するシステムとなる気がする。
そして、コミュニティが(電子)ネットワーク化により
何か根本的な変化を迫られるのは近いという気がしている。

丸山先生の言葉を借りれば、

  • 土地に縛られたコミュニティが浮揚する


まさにその瞬間を楽しむようにしたい。